我々が受けてきた教育は、国家主義、集団主義の教育である。
人間は国家のために、社会や共同体のために存在すると教えられてきた。もちろん、個性の重視とか個の自立が叫ばれてきたが、それは本筋ではないのだ。国家が多額の金を出している義務教育制度において、国家の意思が第一に置かれていることは疑うべくもない。
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戦前の日本は国家主義教育で、戦後はそうではない、と考えるのは誤りである。世界のすべての近代国家は、戦前も戦後も、ヘーゲル―デューイの社会主義、国家主義の強い影響下にあるのだ。むしろ、戦後、ますます聖書の神が捨てられる傾向がある以上、社会主義、国家主義、集団主義の圧力は強くなるといえるだろう。
戦後の国家主義教育の限界
by 富井健
http://www.millnm.net/qanda/pereme.htm
我々が受けてきた教育は、国家主義、集団主義の教育である。
人間は国家のために、社会や共同体のために存在すると教えられてきた。もちろん、個性の重視とか個の自立が叫ばれてきたが、それは本筋ではないのだ。国家が多額の金を出している義務教育制度において、国家の意思が第一に置かれていることは疑うべくもない。
日本の教育のみならず、世界の教育において多大な影響を与えたのはJ・デューイである。デューイは、ヘーゲル主義者ジョージ・S・モリスの弟子である。モリスは次のように述べている。「…教育は、子供中心ではなく、国家中心であるべきだ。ヘーゲルは、『子供は、社会の歯車として機能しない限り、個人としての価値はまったくない。』と考えていた。」モリスのヘーゲル主義はデューイに引き継がれた。
デューイは「子供は個人の才能を発達させるために学校へ行くのではなく、組織体としての社会の『単位』になるべく行く。」と語った。
ヘーゲルにとって、国家は法と倫理の源であり、自由の体現者であった。国家は善悪を定義し、人々に完全な自由を与える「世界を歩む神」、「実際的神actual God」であった。
デューイは、この「神」を「偉大なる社会」という名で呼んだ。人間は、この「偉大なる社会」が到来しない限り本当の人間になることはできない。人間は神の似姿として作られたのではなく、社会の似姿として創造されるので、この真の社会が誕生するまで人間は真の人間となれない、という(John H. Hallowell: Main Currents in Modern Political Thought, p. 548. NY: Henry Holt, 1959, cited in R.J.Rushdoony: Messianic Character of American Education, p.160, NJ: P&R, 1963)。
「偉大なる社会」において、個人と個人の間には成功や失敗によって差が生まれてはならない。宗教において、救われる者と滅びる者との差があってはならず、教育において、能力による区別があってはならない。競争よりも協力が尊重され、大学格差は敵視される。
1933年7月1-7日に行われた米国教育局のシカゴ大会において、デューイは、自分たちを貴族階級とか「プロフェッショナル」とみなし、誇り高ぶっている教育者や教師たちを批判した。教師にとって必要なのは「同情の心」であり、「銀行家」やプロフェッショナルなど少数の特別な階級の人々と同調するのではなく、労働者や大衆と同調すべきだと語った(Dewey, Education and our Present Social Problems, N.E.A. Proceedings, 1933, pp. 687-689)。彼にとって民主主義とは、崇高さへの向上ではなく、社会における低い部分に同調し、どの階層も一致できる最小公倍数を得ることであった。それゆえ、デューイの影響を受けた人々の間では、飛びぬけた才能を持つ生徒は「出る杭」として打たれた。成功も失敗も、有能者も無能者も、高尚も低俗もなく、みなが等しく最も低いレベルで一致する社会こそが彼の理想であった。
「デューイの教育思想と理論は戦後日本の教育に大きな影響を与えた」(http://www.annie.ne.jp/~mhayashi/html/tosho/dewey.htm)。今日、我々の周りにいる中学生や高校生の中に、彼の国家主義、集団主義教育の結果を見ることができる。いじめの根本には、異質なものの排除がある。すべての差を解消して、もっとも低い部分で最小公倍数をとっていく思想に影響されれば、有能な異分子が排除されるのは当然である。今日登校拒否児が急増しているのは、デューイ流の集団主義によって個性をつぶされることに子供たちが耐えられなくなっているからだろう。
デューイにおいて、倫理とは国家が与えるものだ。キリスト教社会に伝統的に採用されてきた高等法は否定された。世界は、主権者である人間の意志だけで成立する閉じられた系であり、外部から超越者が法を与えることなどあってはならない。
戦後の日本人の間において道徳が崩壊し、物事の正邪の区別ができなくなっている子供たちが増えているのは、超越者が与えた普遍的道徳を教師たちが教えることに失敗したからである。明治において、教育勅語があり、かりそめにも超越的な法が用意されていたが、戦後の日本にはそのような道徳を教えてくれる人がいなかった。
デューイにおいて、教育は、国家建設のための手段であるから、子供たちは国家に役立つ人間として成長するはずである。しかし、聖書において、教育とは、神に役立つ人間を育てることにあるのだ。神に役立つ者とは、契約を守って、地上を神の御国と変えることのできる者である。
聖書の教育の基本は、国家ではなく、家庭である。よき父や母となり、倫理的にしっかりとした強い家庭を作れる人間を育てることである。これは、聖書律法のほとんどが家庭に関する掟であることを見てもわかる。国家や共同体の成否は、この家庭に関する律法を忠実に守るかどうかにかかっている。倫理的に失敗した家庭が増えるならば、社会や共同体の力は次第に小さくなる。聖書におけるイスラエルの歴史はこのことを雄弁に語っている。
しかし、ヘーゲル―デューイの教育の焦点は、倫理ではなくパワーに、家族ではなく国家に置かれている。しかし、どんなに英語、数学、社会、理科などにおいて優秀な成績を収める国民が増えても、彼らが倫理的に破産し、家庭が滅茶苦茶になっているならば、国は衰亡する。
戦前の日本は国家主義教育で、戦後はそうではない、と考えるのは誤りである。世界のすべての近代国家は、戦前も戦後も、ヘーゲル―デューイの社会主義、国家主義の強い影響下にあるのだ。むしろ、戦後、ますます聖書の神が捨てられる傾向がある以上、社会主義、国家主義、集団主義の圧力は強くなるといえるだろう。
クリスチャンは、今こそ、この近代思想の社会主義、国家主義を克服し、真に聖書的教育を子供たちに施さねばならない。ヘーゲル―デューイ主義を捨てない限り、ノンクリスチャンの家庭はこれからも崩壊しつづけるだろう。頑固に自分の道を愛する人々に期待することはできない。我々は、独自に、聖書にのっとった子育てを実践しなければならないのだ。そして、強い信仰の人を育て、クリスチャンホームを増やして、日本において強力な集団を形成しなければならない。もしクリスチャンがこのことに失敗するならば、日本は2度と立ち直ることができなくなってしまうだろう。
創造論や神学を似非科学とか擬似科学と批判する似非科学者
by 富井健
http://www.millnm.net/qanda/gijika.htm
実証科学は、帰納法的認識論を基本とするが、帰納法的認識論は、ドグマをできるだけ排除しようとする。
人間が経験したことに基づいて論を組みたてるので、実証科学において、学説は常に例外なく「仮説」にほかならない。
10000回コップを手から離してどうなるかという実験を繰り返しても、10001回目にどうなるかは厳密には分からない。
10001回目に予測した(つまり、下に落ちる)ことと異なる結果が出た場合に、それまで立てていた仮説は否定される。
帰納法的認識論は、このように、「厳密に言えば、人間は経験した範囲内のことしか言えない」という限界を常に内包している。
そして、現代の科学は、この「限界」を持つ知識だけが科学的知識であると定義している。
だから、キリスト教神学や創造科学など、「神の創造や啓示を前提とした科学」を科学とは呼ばないのだ。
現代の科学は、こういったドグマを容認する科学を「似非科学」だとか「擬似科学」と呼ぶ。
しかし、帰納法的な認識論に基づく実証科学だけが「本当の科学」であるということを証明することは、その「本当の科学」そのものですらできない。
なぜならば、その「本当の科学」が「これだけが本当の科学である」という言説すらも、「仮説」に過ぎないからだ。どこまで言ってもこの「本当の科学」は、「私の科学は絶対的な知の方法です」とは言えないのだ。
「本当の科学」が自分を真正の科学であると主張し、創造科学を似非科学であると主張する事は、それゆえ、循環論であり、越権行為なのだ。
しかも、タチの悪いことに、「本当の科学」は、似非科学とか擬似科学とか自らが呼ぶものを、一段下に見ている。
定義によれば、彼らが呼ぶところの、「似非科学」や「擬似科学」は、単に、自分たちが良いと考えている認識方法と異なる方法でしかないのに、あたかも、自分たちの方法が優れているかのように誤解している。
そもそも、「俺達の方法は優れている」ということを述べた時点で、自ら自分の方法を絶対化しているのだ。
彼らがもし本当に純粋に帰納法的認識論に立つならば、創造科学や神学を見下すことはできないはずだ。
彼らが言えるのは、「ああ、あなたがたの認識方法もありかもしれませんね。」ということだけである。
それとも、彼らはやはり、「ドグマとか独善を嫌いながら、自らドグマを作り、独善になる俗物」でしかないのだろうか。
キリスト教と現代科学教、どちらが首尾一貫して世界を解釈できる?
by 富井健
http://www.millnm.net/qanda/dotiraga.htm
現代科学の迷信は、宇宙内において起こることは、すべて自律的に起きている、ということである(このように信じる人々を現代科学信奉者と呼ぶことにする)。
例えば、ものが下に落ちるのは、神とは無関係に、引力の法則にしたがって、下に落ちるのだ、と考えている。
神は、この過程においていっさい干渉はしていない、と。
しかし、現代科学は、この宇宙内において起こることは、すべて自律的に起きているということを証明できない。なぜならば、現代科学は、経験科学だからだ。
経験科学は、帰納法的に知識を獲得しようとする。データを集めて、仮説を立て、実験をして、その真偽を確認する。
しかし、科学者はこの世に起こるすべてのデータを集めることはできない。あくまでも、彼らが発見した法則は、過去の一部のデータと、実験して得られた少数のデータだけである。
あらゆる場合に適用できる法則など、土台、得られるわけがないのだ。もし、得られるというならば、それでは、1億年後に、3億光年離れた○○星において、同じ実験環境を作ってそれが成り立つことをどうやって証明するのか。
誰も、一億年後にそれが同じように成り立つかどうか確認などできない。
つまり、科学が発見したとする法則は、「あらゆる」ケースについて言えるとは口が割けても言えないのだ。
このように、人間の知識は有限であり、この知識によって、無限のことについて判断することなどできない。
だから、神の存在について現代の科学は、コメントすることなど一切できない。それは、科学の扱う範囲を逸脱している。
では、神が万物に関与しているかどうか、という問題についてはどうだろう。
創世記によれば、神は万物を創造された。そして、万物を動かすために、法則を定められた。物理法則、化学法則などすべての法則を定められた。
創造の前に、何等かの法則が自律的に存在したわけではなく、あくまでも神は「無から」世界を創造された。
それゆえに、自然界に働く法則は、すべて神が定めたものであり、神の主権の下にある。
つまり、法則はすべて「神のしもべ」なのだ。
もちろん、法源(法を与える者)は、その「しもべ」である法を自由にコントロールできる。
普段は、しもべに任せている仕事も、ある時は、主人が自ら行うこともある。
例えば、ある物体を放れば、引力によってそれは下に落ちるが、ほとんどの場合、引力の法則にまかせていたこの物体の運動の仕事を、一時的に神が違う力を働かせて止めて、物体が下に落ちないようにすることも可能なのだ。
現代科学信奉者は、「物体については、100%自然界の法則が働く」と考える傾向があるが、100%働くかどうか、どうしてわかるのか。
神が、自ら手を差し伸べて、法則を変えたり、ストップしたりする可能性をどうして排除するのか。
彼らは、神がそのようなことをすることは一切ない、と証明できるか?
我々は、こんな迷信を信じようとしない。
神は、自然法則についても主権者である。自然法則も被造物だからだ。
現代の科学は、「閉じられた宇宙」という迷信を作り上げ、神を宇宙から排除している。だから、目の前に広がる複雑な生物が、自然に進化してできたなどという迷信を作り出さざるを得なくなってしまったのだ。
生物を見て、素直に理解する人は、「神の創造だ」と判断できるのだが、現代科学信奉者は、すでに「宇宙は閉じられた系であり、神などの超越者からの介入はなかった。」という前提を立ててしまったから、「すべて、宇宙の中だけで偶然にでき上がった」という苦しい言い訳をする以外にはなくなってしまったのだ。
「宇宙は閉じられた系であり、神などの超越者からの介入はなかった。」というのは、あくまでも「信仰」である。つまり、現代科学も、一つの宗教なのだ。
だれも「宇宙は閉じられた系である」ことを証明なんてできないから。
現代は、ヒューマニストが、科学の領域を支配しているから、人々は、ヒューマニストの意見しか耳に入れようとしない。
しかし、歴史的に言えば、近代科学は、その根源をキリスト教に置いている。キリスト教の世界観の背景がなければ、近代科学など起こり得ない。
我々は、「宇宙は閉じられた系であり、超越者の介入などない」とする、この新興宗教から解放される必要があるのだ。
そうしないと、進化論などまがい物を信じ、生物も人間も偶然の積み重ねによって生まれた、だから、普遍的倫理など存在しないのだ、という結論せざるを得なくなってしまう。
普遍的倫理がなければどうだろうか。
環境適者だけが残り、環境不適者は滅びるという法則だけが唯一の倫理法則であるとすればどうだろう。人が見ていなければ何をやってもよいと考える人間のほうが勝ちだ。
こんな教えを信じていたら、世の中は滅茶苦茶だ。
頭をクリアにして考えていただきたい。
キリスト教と、現代科学教とどちらが、首尾一貫して世界を解釈できるかを。
(sk)
「人間の知識は有限であり、この知識によって、無限のことについて判断することなどできない」、「我々が受けてきた教育は、国家主義、集団主義の教育である」、「この世に起こるすべてのデータを集めることはできない。過去の一部のデータと、実験して得られた少数のデータだけである」、「あらゆる場合に適用できる法則など得られるわけがない」などなど、富井健が書くことは面白く、共感できることが多い。
ところがなぜか途中から、どんなことも宗教になり、神になり、キリスト教になってしまう。そこで急に、共感はしぼむ。
神と言わず自然と言ってくれたなら、多くの人が共鳴するだろうに。でもきっとそれは、ない。キリスト教再建主義の神学者・教役者だというから、神と言わなければ富井健ではないのだろう。
信じることのために膨大な量の著作を残す人がいる。でも多くの場合、言いたいことはただひとつ。そのひとつのことが伝わらないがために、人は膨大な量の言葉を紡ぎ出す。
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私にとっては、富井健が信じる宗教も、富井健が敵対する科学も、富井健が批判するヒューマニズムも、みんな同じ。西洋文明の産物としか思えない。人間を自然の一部と捉えれば、そして人間なんてそんなに大したものではないと思えば、宗教も科学もそしてヒューマニズムも、所詮は人間が考え出したものだと気付く。
遠い地で生まれた宗教は、日本のようなところにまで届き、人を惑わす。科学も同じ。ヒューマニズムも同じ。人の考えることは、することには、限りがある。(あれっ、富井健が言っていることと同じだ ;) )